2009年04月28日

■ バッハの数象徴 Zahlensymbolik と仏像

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  バッハが、「カバラ」(中世ユダヤ教の神秘説)の伝統である
  <数象徴>に親しんでいたことはよく知られています。

喫茶店 YouTube Glenn Gould Moments- P.01 Partita no.2 in C minor

 簡単にいってしまえば、<数のアルファベットの遊び>です。

 A=1, B=2, C=3, D=4, E=5, F=6, G=7, H=8, I.J=9, K=10,
 L=11, M=12, N=13, O=14, P=15, Q=16, R=17, S=18, T=19, U.V=20,
 W=21, X=22, Y=23, Z=24.

 B A C H は、2+1+3+8=14
 J. S. B A C H は、9+18+2+1+3+8=41
 41 という数は、14 という数を逆に読んだものですから、これを「バッハの逆行形 der Krebs vom Bach 」ということができます。

 そして、JOHANN SEBATIAN BACH は、
 9+14+8+1+13+13 +18+5+2+1+19+9+1+13 +2+1+3+8=140
 この 140 は、14×10=140 つまり 14 の 10 倍にあたります。

 それで、先日ご紹介した「われら苦しみの極みにあり」のBWV668 の定旋律の第1行は、BACH の数の14音で構成されていて、全行は J.S.BACH の 41 の音符で書かれています。また《オルガン小曲集》の BWV641 の、140個の音は、JOHANN SEBATIAN BACH という完全な名前の数と一致します。

 さらに、原題の Wenn wir in höchsten Nöten sein のアルファベットの数の合計総数は、318 で、3+1+8=12 になります。この12は、キリスト教にとっては、神聖な数字で、教会の象徴なのです。

喫茶店 YouTube Glenn Gould Moments- P.02 Interviews


◆ キリスト教の《象徴》数において重要な数字 ◆

 3 は、三位一体の神を示します。そして 3 はまた、神との関係における人間にも適用されます。「マタイ福音書」では、われわれは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」神を愛すべきだとされています。つまり、人間に与えられた生活原理は三重のものである、ということになります。

 7 という数の象徴的意味は多様なのですが、アウグスティヌスによれば、その本来の意味はトタリテート(総体性)でした。僕らが「7つ道具 die sieben Sachen 」というとき、それは持ち物の一切合切という意味で今でも使っている言葉ですね。しかし元来 7 は、創造者と被造物を包含していました。神と天の 3 が、そこでは地の 4 と結びつきます。そして地の 4 という数は、4つの元素(地・水・風・火)、4つの気質(多血質・胆汁質・粘液質・憂鬱質)、1日の4つの時(朝・昼・夕・夜)や四季、4つの風位、地球の四辺のうちに表されています。これらすべてにとって、楽園の4つの川が聖書の原形なのです。

 天地創造は7日のうちに行なわれました。世の終わりにおける新たな創造がこれと平行関係にあり、そこから「ヨハネ黙示録」の 7 という数が生まれました。したがって 7 はまた時の全体、あらゆる時の初めと終わりをも意味します。聖霊 Creator Spiritus が新たな創造へと導き、それゆえ聖霊には 7 という数が特に添えられています。「イザヤ書」で述べられている 7つのガーベ(才能)は聖霊のガーベ(贈物)です。聖霊は悔罪によってキリスト者を神の恩寵と至福へ導きます。それゆえ 7 は悔罪の数となります。教会は7つの悔罪詩篇をもち、日々7回の祈祷を行います。

 以上はキリスト教における 7 の解釈から、重要なものだけを取り出したにすぎません。よく知られているように、この 7 という数はさらにあらゆる民族の宗教的表象のうちでまったく独自の役割を演じています。アウグスティウスもこれを「全事象の源泉 caput omnium rerum 」と呼びました。

 12 は、教会を象徴します。選ばれた民の12の部族、主の12弟子、天のエルサレムにおける 12 の数は、聖書の最も重要な引例です。グレゴリウス大教皇がいかにして 7 と 12 の両方を互いに関係づけたかは、旧教会における数象徴的思考の性質をよく物語っています。すなわち、7=3+4, 12=3×4 のように、どちらの数にも同じ成分がひそんでいる、というのです。彼は 12 を、教会を通じて三位一体なる神が世界の四辺にまで宣べ伝えられるべきだ、と解釈します。

 10 という数は「律法」を象徴し、<十戒>が絶えず出てくるその原形です。

 最後に、聖なる数と音楽の関係は、三和音は三位一体の象徴、そして全音階の 7つの音は、まさに聖なる 7 自体の意味において、全体性の象徴とみなされました。半音階の 12 の音も聖なる数と結びつけるようになったのは、ここからきわめて自然ななりゆきでした。


ちっ(怒った顔) わーい(嬉しい顔) がく〜(落胆した顔) ふらふら

 Free, Day, Invoke
 F:規則にとらわれない、文字にこだわらない、固苦しくない
 D:日、一日、暇な一日
 I:(わたしはあなたに)祈る、呼びかける 

 Free, Day, Jabber
 F:固苦しくない
 D:日中、約束日、(一日の出来事を)
 J:(私は)、(早口の)おしゃべり(をする)。

 で、たとえば、649 という数のもつ意味を、上記のようにしてあそびます。
 むろん、数さえ合えば文字の並び替えは自由です。
 タイトルのネーミングを考えるときなんかにも使えるかなあ・・・

 アルファベットは 26文字ですが、聖なる数 12の2倍の24にするために、IとJ、UとV がまとめられました。が、どうしてその文字が選ばれたのかは、僕は知りません。

 で、どこからかの手紙なりメールの最後に、たとえば、From mazurka と記入してあった場合、すべてのアルファベットの総数は 134 になります。ここで推理できるのは、1×3×4=12 になりますから、12 は M ですから、この手紙を書いた人の本名のイニシャルには、M がつくのかなあ・・・なんて想像してみることもできます。

 たとえば、Fine Boy , Forever.
 僕の誕生日の 626 です。決定 わーい(嬉しい顔)

 話を戻します。

 <文字数>についての話をしておきます。
 ギリシア語アルファベットの数値に基づく人造語に、「アブラクサス Abraxas 」という文字(語)があります。これは 365 という数を意味します。成り立ちからすると、この語は聖人暦と関連し、宗教的な意味を持っています。なぜなら、各日を一人の聖人に帰属させることは、一年とそのすべての日を支配する悪魔たちに対する天の軍勢の勝利と同じ意味だからです。中世においてもなお、人びとはこの神秘の語が刻まれた石を用いていました。その場合の《アブラクサス》は宇宙の象徴であり、同時に三位一体の象徴でもありました。それは 7個の記号(文字)から構成され、母音 a (=1)を3回含んでいるからです。

 以上のことを確認してはじめて、バッハの音楽における、象徴数の用法に対する正しい理解が生まれます。でもここまで書いておいて、本当に申し訳ないんだけど、バッハの音楽をただ聞いていたんじゃ、何のことだかわからないんですね。バッハの研究者か、演奏者、または楽譜を読める人じゃないと、分からないことなんですね。でもね、バッハの音楽の、ある一面には、こんな「想像力の戯れ Lusus ingenii 」や「宗教的散策 geistliche Spatziergänge 」が隠されている曲もある、ということだけは、こころの片隅にでもいいから、記憶しておいてもらえたら、うれしいな。

 バッハのコラールなどの音楽が<祈りの造形>であるすれば、この前の記事の、多くの優れたこころに感動を呼ぶ仏像もまた<祈りの造形>と呼べます。
 
 音楽を聞く場合でも、仏像を見る場合でも、何にも知識のない白紙の状態で、ありのままを、素直に、正直に心に感じる、という見聞きをすることが大切なことだとも思うけれど、その感動の受け方が、見聞きした人の能力によって違うのも、また事実なんだね。音楽や仏像に接する場合、聞く側の立場、見る側の立場、状況、特に精神状態の違いによって、それらから受ける印象も当然異なる、ということですね。

 でもね、ここで大切なのは、バッハの音楽が、一体の仏像がその形から人びとに伝えようとしている、真髄、心には変わりはない、ということなんだ。演奏者が、聴衆の選り好みをするということがないのと同じで、仏像が、見る人の選り好みをするということはないよね。その仏の心を、信仰心深く、ありがたく受け止められる人だけに説こうとしているわけじゃないし、知識をたくさんもつ人にしか伝えない、というものでも、むろん、ないよね。

三井寺(滋賀)  阿弥陀如来像.jpg薬師寺(奈良)  聖観音像.jpg
東慶寺(北鎌倉) 水月観音像[1].jpg


 だけど、仏像に本来、その形のなかに込められたきた仏のこころ、教えとはいったいどのようなものなんだろう。少しは知りたい! と思わないかい?

 僕は限られた命だし、今から仏像を観にゆける立場でもないから、知りたいんだ、とってもね。
 <霧や靄のかかった><不思議な>よく<判らない>状態はいやなんだ。

喫茶店 YouTube MISTY ERROLL GARNER

   《 不思議な、よく判らない気持ち 》

 私を見て、木の上の子猫のように途方にくれている私を
 まるで雲にでもしがみつきたい気持ちなの
 よく判らないけれど あなたの手を握るとポーッとなってしまう

 あなたが歩んでくると一斉にたくさんのヴァイオリンの音が聞こえ始める
 けれどそれは私の聴き間違いであなたの「こんにちわ」という声かもしれない
 でも私にはその音楽が聞こえる
 そしてあなたが近づいてくると私はなにか霧に包まれたような気持ちになる

 あなたは私のことを引きずり回しているんだよって言いたいのね
 でも私が心の底からそうやって引きずり回してもらいたいのよ
 私がどんなに救いようもないほど迷ってしまっているのかわかるでしょ?
 だから こうしてあなたについて行くのよ

 私ひとりだったら、この不思議な土地をさまよったりしてたかしら?
 右足と左足の区別もつかず、帽子と手袋も判らないこんな状態で
 私は今 とても不思議な気持ちなの、激しい恋に落ちている気持ちなの


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プレゼント YouTube JR 東海 「そうだ 京都 行こう。」(1〜21)

◆ 形が伝えるもの ◆

 仏像の姿・形を見ると、両足を組んで座っている像(結跏趺座 けつかふざ)。片足だけゆるめて座っている像、またはゆるめた片足を座っている台から前に垂らしている像(半跏趺座 はんかふざ)。両足をそろえて真っ直ぐに立った直立の像、少しどちらかの足に体重をのせて傾いた偏立像。── と、大きく3つに分けられます。

 メモ 座っている像 メモ

 この像に表現されている仏の姿は、衆生(しゅじょう)、つまり人間をどのように救ってやろうか、と一生懸命考えて瞑想している姿です。そして、そういう仏の心を知らない人間が頼みにきてくれることを、待っている姿です。「こい、こい」と座って待ってくれているのです。そんな仏像の前に座って、じっと見ていると、その仏像のほうから声が聴こえてきます ── 「忙しいだろうけど、まあちょっと座れ」「座ってよく考えろ」「あくせくし過ぎているんじゃないのか」と・・・。

 だから、座っている仏像さんがおられたら、「ああやって一度座って、冷静に考えてみたらいいんだな」とか、「一度気持ちの整理をして考えてみよう」というふうに受け止めればいいのです。

 座っている仏像さんの足の組み方をよく見てみると、右足を上に乗せている「降魔座(ごうまざ)」と、左足を上に乗せている「吉祥座(きっしょうざ)」があることに気づきます。

 右側が清浄、左側が不浄。右側が仏さま、左側が汚れのある私。という考え方がありますから、── 左足の上に右足を乗せるのは、左=私を、右=仏さまが抑えている、ということになります。つまり、私のもつ「煩悩(ぼんのう)」を、仏さまの力で抑えてもらっている。これが「降魔座」というわけです。そして私たちに、まず「煩悩を抑えなさい」「欲張るな」と教えてくれているのです。

 右足(=仏さま)の上に左足(=私)を乗せる「吉祥座」は、私の「煩悩」を仏さまの力で一つ一つ打ち消していって、つまり「降魔」を先に行なった後の行為を示しています。悟りの境地に達している心境、喜びを表情で見せているのです。そして私たちに、「煩悩」を捨ててしまって、「一度気楽な心境になりなさい」。それから「自分の利益(自利)、自分の「喜び」を、人に与えなさい(利他)」ということを教えてくれているのです。

 メモ 半跏趺座像 メモ 

 座っている台から、片足を下ろしている姿は、今にも立ち上がろうとしている恰好の像です。すぐにでも救いにゆきたい、という気持ちで、組んでいる足をほどいて、「とにかく一度きなさい」と座って待って、今か今かと、もう待ちきれなくなっているのです。

 決断力がにぶいタイプの人間や、悩んでばかりいて行動できないでいる人間に対して、「いくら考えてもうまくいかないぞ、ここはとにかく立ち上がりなさい」「一度とりあえず行動を起こしてみなさい」というようなことを、形で、私たちに教えてくれているのです。

 メモ 直立の像(立 像) メモ

 まず直立の場合、これは「あの人は全然私(仏さま)のいうことを聞かずに、まだあんな危ないことをしている。もうじっとしていられない」というので、台から下りて、その人を直接助けにゆこうと、立ち上がっている姿です。

 次に偏立の像は、片方の足をちょっとゆるめている恰好の像です。せっぱつまった中にも、もうちょっと本人に何かこっちを向く機会を与えて待ってみよう、という気持ちで、私たちの積極的行為を待っていてくださるのです。

 それなのに、私たちはそんな仏さまの心を知らない。だからその仏さま自身が、自分も我慢できなくなって、歩いて行ってその人を助けてあげようと、片足を踏み出している恰好をしているのです。

 直立している像は、いつまでもぐじぐじと考え込んでいる人間に対して、「決断を下しなさい」ということを教えてくれていて、偏立の像は、何事でも、ちょっと考えてすぐに行動に移す人間に対して、逆に「再考してみなさい、行動を起こす前にもう一度よく考えてみなさい」と教えていて、片足を少し踏み出している像は、「すぐにでも行動に移しなさい」と私たちに教えてくれているのです。

プレゼント YouTube JR 東海 「そうだ 京都 行こう。」 No.22

   ヴィヴル サ ヴィー! Vivre sa Vie ! 
   ほかの誰でもない自分自身の人生を生きましょう!

東慶寺(北鎌倉) 水月観音像[2].jpg永観堂・禅林寺(京都) 阿弥陀如来像.jpg
善願寺(京都) 不動明王(西村公朝 作).jpg


 ふと何かの機会に、今度の連休にでも、こうした仏像を見たときに、その人なりに「あっ、こんなことを今、わたしに教えてくれたんだな」と受け取ってもらえれば、ある意味で、仏像の役目としては、人をすくったことになるのです。仏像というのは、<心が形になって>造られているものですが、<その形がその人を救っている>というのは、こういうことなのですね。

 ◆ 合 掌 ◆

 右手(仏)と左手(私)を合わせると「合掌」という形になります。これは「私」が「仏」に近づく。「仏」が「私」に近づいてくれる。つまり、仏と私が一体になりたいという<願いの形>なのです。

 仏像のなかには、右手を上げている像と、左手を上げている像があります。右手を上げていれば、「釈尊に感謝しなさい」「釈尊の誕生を祝いなさい」と言っているのです。簡単に言えば「お寺に詣りに来なさい」と私たちを呼んでいるのです。左手を上げていれば、「何もしなくてもよい」「お前たちを救うために生まれてきたのだから、仏の誕生を信じてくれればよい」と言っているのです。

 手の指には、仏の世界の仏さまの名前がついています。
 親指は、大日如来で「空」を示します。
 人差し指が、阿弥陀如来で「風」を。中指が、釈迦如来で「火」を。
 薬指が、薬師如来で「水」を。小指が、弥勒菩薩で「地」を表しています。
 これを「印相(いんぞう)」といいます。でもむつかしく考えないで、仏さまの「手話」だと思ってみると、少しは仏さまの名前もわかるようになります。姿、形のジェスチャーで、指で手話をしながら、私たちに語りかけてくれているのです。だから、私たちは「ああ、そういうことなんですか」と応えるジェスチャーが、「合掌」なんですね。

 淡明さんが、立像の百済観音に心魅かれたのは、きっと観音様が語りかけている声が、音が、淡明さんの心に響いたんじゃないかな。

 シロクロさんが、不動明王が好きなのは、明王さまの眼には、父親の厳しい慈悲の「慈」と、母親の優しい気持ちの慈悲の「悲」の両方の気持ちが込められているから、それをシロクロさんの心が感じたのかもしれないね。不動明王が右手に持っている諸刃の剣は、一方で敵を倒し、もう一方で自らの煩悩を断ち切るためのものなんだよ。左手に持っているのは、太い縄の両端に、分銅と鐶(かん)がついています。分銅で悪魔を退治して、鐶(輪のようになっているでしょ)、それでたとえば川で溺れている人を助けるんだ。つまり困っている人を助けるという二つの働きがあるんだね。そして、不動明王は大日如来の化身として働いている姿だ、ということを忘れないでね。もし、心あたりがあったら、近くの不動明王さまに、合掌してみてね (^_^;)。

 東京の友人は、半跏趺座像の「弥勒菩薩に心魅かれた」とのことで、(う〜ん、そうなのか・・・ わーい(嬉しい顔) )。
 淡明さんとシロクロさんに、「よろしくお伝えください」との伝言をいただきましたので、この場で、お知らせしておきますね。

 それでは、充実した連休をお楽しみくださいね!
 

Glenn Gould Moments

part 3
http://www.youtube.com/watch?v=bSRC3G1y7dA&feature=related

part 4
http://www.youtube.com/watch?v=eEtmifxrdsw&feature=related

part 5
http://www.youtube.com/watch?v=UKOtAHY_XII&NR=1

part 6
http://www.youtube.com/watch?v=butg4krAZyo&feature=related
posted by 空っぽの皿 at 00:23| パリ 曇り| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
仏像の記事ありがとうございます。

そうなのですね。
仏の宏大な慈悲の働きと、私の信心の真(まこと)とが合一すること(「加持」)を願って、仏に掌を合わせています。
が、信心の真ほど難しいものはありません。いつも迷いに迷っています。


「東京の友人」さん、ありがとうございます。
《きずな》は目に見えなくても、お皿さんとしっかりと結ばれていますね。
Posted by 淡明 at 2009年05月01日 19:45
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