先ず最初に、前述したバルトークの『音楽における種の純潔性』についてですが、「種の純潔性」とは、ナチスの用語法のひとつです。よく読んでいただけるとお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、バルトークは、一種の反語、相手と同じ言葉を使って、意味を反転させるアイロニカルな論法をとっています。つまり、「種の純潔性」という言葉を逆手にとって、文化が混沌、あるいは多様性のなかからしか生まれ出ないことを論じています。このアイロニカルな論法は、バルトークの記述に多くみられる特徴のひとつです。
次に、『ハンガリーの民俗音楽』の論文の後半部を、抜粋し、引用します ──
さて、最後に、“ もともとハンガリー自身のもの ” として外国で非常によく知られている芸術音楽の作品のなかで、ハンガリーの民俗音楽がどのような役割を果たしているかということについて、ここで触れておきたいと思います。ところで、私はリストの《ハンガリー狂詩曲》とブラームスの《ハンガリー舞曲》を考えているのですが、実は、これらの有名な曲の中には、真の意味での民謡は1つもありません。リストとブラームスが自身の作品に用いた曲のすべては、いわゆるディレッタント音楽家(素人音楽家)の作曲になるものでした。その理由はほかでもなく、リストやブラームスの時代には、いわゆる教養人と呼ばれた人たちの間で、実際の民俗音楽についてほとんど何も知られていなかったということと、また仮に、何か知っていたとしても、そうした人たちにとっては、民謡とは単に“ 民衆の歌 ” という集合名詞にまとめられているような曲にすぎず、民謡も民衆的な通俗歌もいっしょくたに考えられていたということです。
ところで、リストがジプシーについて書いた著書の中で犯した誤りは、さらに著しいものです。彼は、ジプシーたちが演奏している曲や、リスト自身の作品に用いた曲が、実際ジプシーの創作になるものである、と信じているのです。そして、彼によりますと、ハンガリーの農民たちの音楽には何らの音楽的価値もない、というわけです。これから見ても、リストが農民音楽については何も知らなかったことは明らかです。・・・ ましてや農民音楽を体系的に収集しようなどとは、夢にも考えて見なかったことでしょう。・・・ 農民たちは、都会の紳士たちの前では、どうしようもないほどにきまって、最も新しい、いわば都会から来たての歌を歌い始めるのが常だからです。つまり、そのような歌こそが、都会の紳士の前で歌うのに最もふさわしいものだと信じ込んでいるのです。そして、長い間さんざん手間どらせたあげくに、ようやく私たちの前に、村の宝物を持ち出してくるというわけです。
・・・
ジプシーたちは、いつも注文者の願う音楽を演奏するのが慣わし(習わし)です。ですから、貴族たちには、貴族階級出身のディレッタント音楽家の曲を演奏し、農民たちには、村の農民音楽を演奏してきました。そして、もしも農民たちに、特別に演奏してもらいたいという注文がない時には、ジプシーたちは、曲の区別も選択もなしに、自分たちの気に入りの曲で農民たちを楽しませるのです。こうして、民衆的な通俗歌が農民たちの間で広められてゆきました。彼らは、何といっても貴族階級に奉仕する音楽家たちでしたので、演奏する曲が民衆的な通俗歌で充ち溢れていただけでなく、その演奏の中には自然なものは何もありませんでした。その上、彼らは、聴衆のために演奏した曲のいずれも、彼らふうに作り変えてしまいました。つまり、節度のない、感情過多なルバートや、旋律をごてごてと塗りたくる装飾音によって、すべての曲を、もはや原曲の見分けがつかないほどまでバルランド・ルバードに変形してしまいました。・・・
・・・
それはともかくとして、リストの《ハンガリー狂詩曲》やブラームスの《ハンガリー舞曲》の中に使われている曲が、ジプシーの創造になるものではなく、ディレッタント音楽家による民衆的な通俗曲であることは全く明らかです。そして、こういった通俗曲の作曲家たち、つまり教養あるディレッタント音楽家たちの名前はほとんど全部が知られているのです。
さて、あなたは、どのように感じられましたか?
日本語版ウィキペディアの『フランツ・リスト < 3. 帰属にまつわる逸話 > 』の中にあるように、「後にバルトークはこれを厳しく批判している」のでしょうか?
LISZT, Franz, Des Bohémiens et de leur musique en Hongrie. Paris, 1857
(画面の右ページをクリックするか、→ をクリックしながら読むことができます。)
リストは、この書物の冒頭部分で、ドイツのヘーゲルの美学を数ページにわたって引用しています。そこには次のような一文があります。
「あらゆる重要な民族は、その民族の本源的精神を表明した原初的書物を持っている。」
そして、この原初的書物は、通常「叙事詩」として伝えられてきた、とリストは述べています。これはたとえば、日本の『古事記』や、琵琶法師たちが謡い継いだ『平家物語』などを想起していただければ、わかりやすいかも知れません。つまり、ある種の叙事詩が、民族の固有のものとして、語り継がれていて、それがその民族の拠り所となっていた、という事態を指しています。
ところが、ハンガリーには、そのような民族叙事詩は伝えられてはいません。そこで、リストはヘーゲールの言葉を利用しながら、「このような叙事詩は必ずしも書物という形態を採らなくても良い」のであって、「場合によっては<音楽>の形でも良い」。そして、ハンガリーの場合は、「ジプシーたちの音楽(当時の概念からすれば「ハンガリー音楽」)のなかに」、そのような「叙事詩の断片が伝えられているのである」、というあまり論理的ではない論理を展開します。リストによれば、ジプシーが演奏し、ハンガリー人が自らの精神を反映していると感じて愛し、保護してきた音楽こそが、ハンガリー人にとっての民族叙事詩である、という1つの結論を導きます。
そして、リストが《ハンガリアン・ラプソディ》という曲集で行なったことというのは、そのようなジプシー音楽の中に伝えられたきた叙事詩の断片を、祖国を代表する音楽家であるリスト自身が、音によって完全な叙事詩として再構成してみせましょう、という壮大かつ奇怪なものでした。
ちなみに、「ラプソディー」という言葉をリスト本人が用いた時代には、その歴史的由来が、はっきり意識されていました。つまり、古代ギリシアにおける叙事詩の語り手ラプソドス Ραψωδός 、英語のラプソード Rhapsode に遡って、この曲名には、そのような叙事詩人の歌う詩の断片という意味が込められていました。
「ハンガリーの民謡は、・・・ あまりにも単純で、不完全なので、強い印象を与えたものではなく、これが他の世界でも好まれたり、すでに人気のある他の叙事的音楽と同列に扱われるとは思えない。これに対して、ジプシーたちが演奏する器楽曲はどんな芸術音楽にもひけをとらないものである。」
つまり、リストにとって、ハンガリー農民音楽はつまらないものでしかありませんでした。けれど、ハンガリーへの思い入れをもっていたリストは、そこでより魅力的だったジプシー音楽を、むりやりハンガリーの精髄である、と主張することで祖国の文化的面目をなんとか保とうとしたのかも知れません。
でも、リストはそのつもりでも、これじゃねえ・・・。
当然ここにはさまざまな批判が出てきますよね。
バルトークは若い頃、この祖国の英雄の作品を徹底的に研究し、自分の作曲の出発点としました。けれど同時に、リストのハンガリー音楽に関する理解には、当然のことながら、納得できないところがありました。
だからといって、バルトークの文章を鵜呑みにして、リストを「厳しく批判」したのでしょうか。ぼくには、バルトークの文章は、むしろリストを擁護しているように読みとれます。リストのことを語りながら、バルトークが、実は、自分のことを語り、そして周囲の無理解に対して痛烈な非難を浴びせているのではないでしょうか。バルトークの文章がもつ特殊なアイロニー、複雑なニュアンスを感じとっていただければ幸いです。その上で、どう判断されるかは、読者のみなさまに委ねます。
Demény János (közr.) Bartók Béla levelei- Budapest: Zeneműkiadó, 1976.(5th edn, 5版)
Bartók Béla ifj. Gombozcné Konkoly Adrienne (közr.) Bartók Béla családi levelei. Budapest: Zeneműkiadó, 1981.
(közr) は、編集者の略。ifj. は、ジュニア(jr.)のこと。
アラーニ家は、とても面白い。まず、彼らはヨアヒムの親戚です(アラーニ姉妹の父方の祖母が、ヨアヒムの妹にあたります)。そして、この家では、まったくドイツ語が聞かれないのですが、それは、単に誰もドイツ語ができないからです。この点では、彼らはブタペストでは珍しい家族です(彼らは、ドイツ語よりむしろフランス語のほうが得意なようです)。
ブダペスト音楽院在学中に、バルトークは、イェリーの姉ティティにピアノを教えるようになりました。この頃、末娘のイェリーはまだ9歳の子供でした。アラーニ家の長女アディラと次女ティティは、その後、演奏家として有名になり、ロンドンを主な活動拠点とするようになりますが、第1次世界大戦の折、帰国する機会を逸し、ハンガリーの出身であることを隠すため、姓をアラーニ Arányi からダラーニ d'Arányiというフランス風の姓を名乗るようになりました。
大戦後の1921年、ルカーチ家に居候していたバルトークのもとに、イェリーが訪ねて来ます。成長したイェリーの演奏にすっかり魅せられ、刺激されたバルトークは、創作のブランクから脱け出すかのように、ヴァイオリン・ソナタの作曲にとりかかります。
私は、これほどすばらしい「驚き」を誕生日に受け取ったことはありません! <本当に我を忘れてしまいそう>(この部分だけドイツ語)。ベーラのニュースが、私を驚かせたのです ── 彼は作曲しています! ようやく。誕生祝いとして彼が作曲中のヴァイオリン・ソナタを見せてくれたとき、私は嬉しくてたまりませんでした。・・・ これよりすばらしいプレゼントなんてあるでしょうか? 本当にうれしいことです。ここ数年のひどい出来事のせいで、ベーラの創造力が弱ってしまったのではないかと、どれほど心配したことでしょう。そして、イェーリ・アラーニにはどれほど感謝していることか。彼女のすばらしいヴァイオリンの演奏が、ベーラを(彼の言うところの)長い休暇から救ってくれたのですから。
イェーリの演奏は、「極めて活発で、情熱的なものだった」と、当時の演奏批評に、記されています。そしてなによりも、彼女の演奏を念頭において書かれた2曲のヴァイオリン・パートの性格が、その演奏の方向性を物語っています。この2曲のソナタは、バルトーク作品のうちでも最も冒険的で、前衛的な響きをもつものとして知られていますが、バルトークをこのような響きへと駆り立てた要因のひとつに、イェーリという存在があったことを忘れてはなりません。
翌1922年、バルトークとイェーリはまず、ロンドンで演奏会を開き、さらにパリに向かいます。4月8日のパリでの演奏会後、このツアーを企画したアンリ・プルニェール(音楽雑誌『ラ・ルヴュ・ミュジカル』の主宰者)の家に招かれます。そしてこの晩餐会は、おそらく20世紀の音楽史のなかでも、もっとも心ときめく晩餐会だったのではないでしょうか。
あぁ、パリの演奏会が終わったよ! ・・・ 5時からの演奏会後、夜8時からプルニェール家で(打ち上げなしで)晩餐があり、そこにはラヴェル、シマノフスキー、ストラヴィンスキーにバルトークが集まった。つまり、音楽史上特筆すべき出来事が起こったわけだ(とイェリーが言ったんだ)。あとはシェーンベルクさえいてくれればね。夕食のあと、さらにミヨー、プーランク、オネゲル、アルヴェール・ルーセル、そしてマリア・フロイント、カプレ(指揮者)、あるいはほかにも多くの音楽家やアマチュアがやって来た。この選りすぐりのメンバーの前で、僕たちはもう一度ソナタ(第1番)を演奏した。ラヴェルが僕の横に座って譜めくりをしてくれ、左にはミヨーがいて楽譜を覗き込み、イェリーの譜面はプーランクがめくった。熱狂的な反応だったが、これは曲のせいばかりではなく、イェリーの演奏のせいでもあった。・・・ ラヴェルとプーランクは第2、第3楽章が、ミヨーは第1楽章が、ストラヴィンスキーは第3楽章が特に気に入った。といっても、ストラヴィンスキーの意見については、挨拶もなくどこかほかのところへ行ってしまったので、間接的に聞き得ただけだ。・・・ ラヴェルとはそんなに話さなかった ── 僕よりずっと背が低く、非常に細身。話しぶりはとても辛辣だ。
1924年、ラヴェルは《ツィガーヌ》を作曲します。その2年前の1922年6月、ラヴェルは演奏旅行のためにイギリスに向かいます。そこで、ラヴェルはイェリー・ダラーニに再会します。あのプルニェール邸での晩餐会の約2ヶ月後のことでした。ラヴェルは彼女にジプシー風の旋律を弾いてくれと頼みます。その即興の演奏は、ラヴェルの希望で延々と続けられ、朝の5時までかかり、これが《ツィガーヌ》作曲のきっかけになりました。
ラヴェルは、この「ジプシー風」音楽を、あえてリストの《ハンガリアン・ラプソディー》の末裔として書きます。そして、この作品のサブ・タイトルに< 演奏会用ラプソディー une rhapsodie de concert >と付けています。また、後年の自伝草稿では、「ハンガリアン・ラプソディーの精神に則って書かれたヴィルトゥオーソのための作品」と明記しています。
ラヴェルは、この作品をジプシー的語法で埋め尽くしましたが、それに共感しているわけではありません。彼は、ジプシー音楽の「本質」を捉えるつもりなどなく、ただその精巧なイミテーションを作ろうとしただけでした。ラヴェルの評伝で有名なジャンケレヴィッチのいうところの、「仮面(マスク)」の1つにすぎませんでした。
この時代特有のフランス流洗練のあり方として、《ツィガーヌ》は、本物、自然を排し、偽物、人工物を偏愛する、この屈折した美意識の産物でした。ラヴェルはよく、自分の持ち物・調度品などを人に見せて、「でもこれは偽物でして」と言って、周囲の人たちを驚かせていたそうです。
もし、「ジプシー音楽」が、バルトークのいうように「まがいもの」であったなら、ラヴェルにとってそれは、いっそう魅力的な素材でした。ラヴェルの美意識は、ともすればオリジナル志向に傾きがちなバルトークの芸術とは、根本的に対立していたのです。
ラヴェルの《ツィガーヌ》のコンセプトは、バルトークの民俗音楽研究にとって、痛烈なアイロニーとなっています。「ジプシー音楽」が真の民謡ではないことは認めるとしても、でもそれは芸術的に無価値といえるのだろうか。科学的真偽と芸術の美醜に関連はあるのか。バルトークの研究が、その真偽を明らかにしたとして、彼の創作はそれに何らかの影響を及ばされるものなのか? ラヴェルの作品は、バルトークにこのような問いを投げかけました。
では、この挑発的な作品を知ったバルトークは、どう感じたのでしょう?
バルトークのラヴェルに対する反応が、実は1928年に書かれた2曲の《ラプソディー rapszódia 》だったのではないでしょうか。
バルトークは、2曲を書き上げた段階で、ヴァイオリニストのセーケイを招き、「どちらかの曲を君に献呈する」と言いました。セーケイは、より冒険的で不思議な響きのする第2番を選択しました。そして、残った第1番を、シゲティに献呈します。
リストに心酔していた若きバルトークは、1904年のピアノ作品に、この「ラプソディ」のタイトルを与えていますが、リストの民俗音楽観に疑念を持つようになってからのバルトークは、このタイトルを封印してきました。また、1938年12月1日の手紙では、「この題名を好まない」とも記しています。ではなぜこのタブーを破ってまで《ラプソディ》を作曲したのでしょうか。──
シゲティは、「ラヴェルの<演奏会のためのラプソディ>という副題をもつ《ツィガーヌ》に対するプロテストだったのではないか」という推測をしています。
バルトークの《ラプソディ》は、ハンガリー語で「ゆっくり」を表す「ラッシュー Lassú 」と、「速い」を表す「フリッシュ Friss 」との緩・急2部形式をとっています。これは、リスト以来の「ラプソディ」の定型を踏襲しています。
Bartók: I. rapszódia
1. Moderato (Lassú)
2. Allegro moderato (Friss)
Bartók: II. rapszódia
1. Moderato (Lassú)
2. Allegro moderato (Friss)
そして、バルトークの《ラプソディ》は、ジプシーによるヴァイオリン旋律などをほぼそのままの形で用い、全体を一種の「コラージュ」として、まとめあげています。これは、以前のバルトークの主張からすれば、ジプシーによって「歪曲」されたものを使っていることになります。バルトークはこれらを意識的に用いており、この段階では、バルトークの考えに変化があったことが推測されます。
1935年以降に書かれた、バルトーク自身の編纂による『ルーマニア民俗音楽 全5巻 Rumanian Folk Music I-V 』 (1967〜1975年) の序文の一部を読んでみましょう ──
この書物の主題は民俗音楽であって、私はこのコレクションで、農民の音楽と村の生活の本質的1部となっているような人々、あるいは、その重要な役割によって、音楽的にこの生活に完全に同化しているような人々(つまり、ジプシーの音楽家たち)の音楽だけを問題にしました。ジプシーたちは、音楽的には村に住む人々に完全に溶け込んでおり、したがって彼らを除外する理由は何もありません。・・・
けれど、農民とジプシーだけを問題にする、といっても何らかの選択は必要です。その際、気をつけなければならないのは、旋律の形式、あるいはその歌い方や演奏法が、都市の影響によって毒されていないか、という点にあります。
これを読めば明らかのように、バルトークが問題にしているのは、ジプシーの音楽そのものではなく、より正確には、そこに見られる「都市の影響」です。つまり、1921年頃の「ジプシー / ハンガリー」という対立が、「都市 / 農村」という対立へと変化しています。そして、バルトークが自らの作品で使った旋律は、ジプシーの旋律ではあっても、リストの場合のように、都市の趣味によって毒されたものではなく、農村に完全に同化したものである、という点で、バルトークの基準に抵触するものではありませんでした。
ラヴェルがやってみせたように、バルトークもここでジプシーの素材を用いて、《ラプソディ》を書いています。けれど、ラヴェルのように19世紀風の「ハンガリー=ジプシー音楽」の通念を利用するのではなく、自らが取材したジプシーの旋律を用いています。そして、ジプシーの旋律を用いながらも、過去の様式を皮肉な手つきで弄ぶのではなく、同時代の前衛に貢献し得ることを示してみせたのではないでしょうか。
ほとんどポスト・モダンの手法に等しいラヴェルの姿勢と比べれば、バルトークの姿勢は、融通がきかず、生真面目に見えます。けれど、ラヴェルの《ツィガーヌ》とバルトークの《ラプソディー》を聴き比べてみると、僕にはバルトークの《ラプソディー》の方が、より自在で闊達に聴こえます。もちろん、これはどちらが正しい、という問題ではありません。20世紀を代表する2つの個性が、潜在的相互批判を繰り広げた軌跡として、僕たちはこれを読み取るべきではないでしょうか。
とある「種屋さん」から分けていただいた「一粒の種(たね)」、大切に育んできました。
そして、どうやら立派な「一本の苗木」になったようです。
ありがとうございました。
「バルトークの叙事詩」として、この「苗木」に、「ラプソディア」という名をつけました。この「ラプソディア」が、育まれ、紡がれ、綴られ、語り継がれてゆかんことを願いながら、ここでの書き込みを終えます。
さて、また新たな「種(シード Seed )」を見に「種屋さん」に行こうかな・・・
ネタを探さなくちゃタネ
そして最後に、Magyar 畑の Wikipédia 君、Français 畑の Wikipédia さん、English 畑の Wikipedia さん、日本語畑のウィキペディア君に、感謝とお礼を申し上げます。
それでは、また!



11日付けの私のコメントが、
空っぽのお皿さま承認の第1号のコメントになったことを光栄に思います。
一度だけのコメントのつもりでしたが、
お皿さまの「読者の皆様へのお知らせ」を読んで
もう一度だけコメントを書くことに致しました。
私の経験が、皆様の理解の手助けになればと思いまして。
お皿さまが
『コメントやトラックバックの記載にお皿さまの承認を必要とされる』
ようになさったことを、読者の皆様の中には
「お皿さまらしくない」と思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私も小さなお店(ブログ)を開業しています。
そして、私も私のブログのなかでお皿さまと同じ方法をとっております。
その理由は、
ある種のコメントやトラックバックに悩まされた頃があったからです。
お皿さまにも
このような対処をなさらなければならない大きな理由がおありなのだと思います。
本当にそうだとしたら
一人の「お皿さまファン」として大変残念です。
一日も早く問題が解消され、
以前のおおらかな「いのちの旅」に戻ることのできる日が来ることを願っています。
「種屋さん」店主より