「目に見えるどんな風景も、その風景のなかに、ここから消えていった人の、目に見えない記憶をつつみもっている」。
「草花の咲きみだれる道で、また、星ふる夜の空の下で、思わず魅せられて立ち止まる」。
「今日、ひつようなのは、一日一日の、
静かな冒険のためのことば」。
── 長田 弘 『世界はうつくしいと』 みすず書房 より引用
フジタ礼拝堂(シャペル・フジタ Chapelle Foujita )は、正式には「ランスの礼拝堂ノートルダム・ドゥ・ラ・ペ(平和の聖母) La chapelle Notre-Dame-de-la-Paix de Reims 」、または、「礼拝堂ノートルダム・ドゥ・ラ・ペ(平和の聖母)・フジタ礼拝堂 Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix dite Chapelle Foujita 」、と呼ばれています。これは、ヨハネ23世の回勅「地上に平和を Paix sur la Terre 」に由来します。設計、装画をはじめ金具、ステンド・グラス、彫刻のプランもすべてフジタ自身の手によるものです。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力した 近年刊行の個人画集・展覧会図録等を監修した。約40年後の2009年4月2日に、東京で98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治が眠るランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。
1968年1月31日、フジタの遺体はチューリッヒ州立病院からランスに運ばれ、エチエンヌ・ドルブ通りの葬儀控室に安置され、翌2月3日の朝10時、ランス大聖堂で葬儀が執り行われました。葬儀では、音楽、とりわけモーツァルトを愛したフジタにちなんで、オルガンが演奏されました。棺は、ランスの北墓地に仮埋葬され、数週間後に地下納骨所を造り終えた時点で、ランスの平和聖母の礼拝堂に移されました。
埋葬から3年後、フジタの埋葬をめぐって、ルネ・ラルー René Lalou (シャンパンセラー、マム MUMM 社の社長、フジタの支援者)と君代夫人との間に、行き違いがでてきました。──
フジタの遺体は木曜日の朝、シャペル・フジタと呼ばれるランスの礼拝堂から秘密裏に掘り出され、ヴィリエ=ル=バークルの墓地の小さな墓地、イヴリーヌ墓地に運ばれた。
・・・(フジタが生前の希望によって、礼拝堂の地下納骨所に埋葬された経緯が続き、今ではシャペル・フジタがランスの観光名所のひとつになった、と述べられて)・・・
ところが、今年の7月初め、フジタ夫人はランス市長に亡夫の遺骸をおさめた亜鉛メッキの棺を、彼女の住むヴィリエ=ル=バークルの墓地に移す許可を申請した。7月27日、市条令により、夫人の願いは受理された。すると、ラルー氏が反撃にでた。彼は個人として、またフジタ友の会会長の名において、遺体発掘の差し止めを求めてランスの裁判所に提訴したが、その請求は却下された。
自らの会社の敷地内に礼拝堂を建てるよう取り計らったのも、ランス市長や知事に働きかけて埋葬許可を取ったのもラルーでした。それらのお礼に、美術館にフジタの絵を寄贈する約束になっていた、といわれています。けれど、君代夫人はその話は聞いていないと難色を示し、ラルーと対立しました。さらに、夫人は、「お墓参りに行くのにランスは遠くて不便だから、ヴィリエ=ル=バークルの墓地に移したい」、と主張して、裁判になったのでした。
フランスの法律上、亡夫に対しての一切の権利を持つのは配偶者です。こうして、フジタの遺体はヴィリエ=ル=バークルの自宅の近くの墓地に埋葬し直されました。
この判決を不服とするラルー、およびフジタ友の会は、フジタの遺体をランスへ返却するよう求めて、行政裁判所に控訴しました。判決は、生前の画家の遺志を尊重すべきだ、とする原告の主張に理解を示しながらも、故人の文書による遺書がない以上、葬儀および埋葬については残された配偶者が決める権利がある、というものでした。(1972年3月24日付、『ル・モンド』 “Le corps du peintre Foujita ne sera pas exhuné”, 24/3/1972 )
およそ30年間、ヴィリエ=ル=バークルの墓地で眠った後、
2003年10月6日、君代夫人の発案によって、フジタの遺体は再びランスの礼拝堂に移されました。生前の希望どおり、フジタは礼拝堂で、ようやく安らかな永遠の眠りについたのです。
Adresse : 7, route de Gif, 91190 Villiers-le-Bâcle
1959年10月14日、フランス国籍取得から4年後、フジタ夫妻はランス大聖堂で受洗式を行い、フジタは「レオナール baptisé Léonard 」という洗礼名を授かります。マダム・キミヨもまた洗礼を授かり、「マリー・アンジュ・クレール baptisée Marie-Ange Claire 」と称することになります。
1960年10月14日、洗礼1周年を記念し、パリから南西20キロほど離れた郊外、シュヴルールの森のなかにある小さな村ヴィリエ=ル=バークル、ジフ街道沿いの農家を購入します。1年をかけて改修・改装工事をしたあと、10年以上住んだモンパルナスを離れ、1961年11月24日に転居します。
1966年5月、平野政吉は長男の誠(現「平野政吉美術館」館長)を伴って、ランスの礼拝堂の壁画制作に入る直前のフジタと対面するため、ヴィリエ=ル=バークルにある家に訪問します。その時の模様を、平野政吉は次のように書いています。──
藤田は、君代夫人に「大将が来たよう」と叫んで、私を迎えてくれた。「藤田美術館がとうとう建つ」と言う私に、藤田は「記念に、ぼくがミケランジェロに挑戦した絵を譲ろう」と言った。
私はうれしくて、パリの街行く人に、だれ彼となくシャンパンをふるまった。だが次の朝、藤田から電話が入った。「あの話はなかったことにしてくれ」。夫人の反対らしかった。私は納得した。その代わり「藤田美術館」の名前はやめた。
私と別れ際、藤田は「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが、最後の対面となった。
フジタの死後、キミヨ夫人は3〜4年間ほど、この家住んでいました。その後、パリのアパルトマンとの間を行き来するようになりましたが、次第にパリにいる期間が長くなります。さらに、東京にも住まいを購入し、3ヶ所を行き来することになります。やがて、ヴィリエ=ル=バークルの家は負担になり、夫人はヴィリエ=ル=バークルの村役場に、家を譲渡したい、と申し出ますが、村では管理費が負担できず、代わって県が引き受けることになりました。こうしてフジタの家は、1991年4月6日、エッソン県に贈与されました。3年後の1994年9月9日、歴史建造物に登録されました。そして、2000年、「メゾン・アトリエ・フジタ」として一般公開されるようになりました。
1970年代に入り、キミヨ夫人は、フジタの“遺志”を理由に、日本での個展、複製を禁じます。この根底には、日本での藤田評価が1920年代の「乳白色」絵画に集中していること、フランス国籍となったにも関らず「日本人画家」として扱われる苛立ちと<不信>がありました。
1977年、開館したばかりのパリのポンピドゥー・センターと、東京国立近代美術館との同時開催の回顧展が企画、準備されていましたが、直前になって急遽とりやめになる<事件>がありました。
1979年、キミヨ夫人は、小学館が刊行した美術全集『原色現代日本の美術』第7巻(近代洋画の展開)に対して、著作権侵害として販売差し止めの提訴を行います。出版社の小学館は事前に許諾を求めていたのですが得られず、論文の挿図として刊行しましたが、カラーで鑑賞性の高いものだったための提訴でした。1984年夏の1審判決で、出版社の主張は退けられ、回収を命じられます。
フジタの生誕100周年にあたる1986年、日本で大規模な回顧展が開催されましたが、夫人は、この展覧会カタログ『レオナール・フジタ展』に対して、著作権侵害として販売差し止めの提訴を行い、勝訴します。
1987年、フランスの美術研究者・鑑定家シルヴィー・ビュイッソン女史が刊行した画集『レオナール・ツグハル・フジタ』(左側の画)は、フジタの画業全体を初めてフランス語に総括し、可能な限り多数の図版を掲載した大著で、カタログ・レゾネ Catalogue Raisonne (総目録美術書)に順ずる基本資料とも呼べる労作でした。けれど、マダム・キミヨは、この出版を差し止める訴訟をフランスで起こします。最終的に敗訴しましたが、日本で提訴した輸入販売を禁止する仮処分裁判では勝訴しました。
2000年に入り、ようやく夫人の姿勢が軟化します。
2001年、ビュイッソンが2冊目のフジタ作品集を刊行します(中央の画)。これは、1冊目の出版以降に発見、特定された作品や情報をまとめたもので、2冊あわせて<カタログ・レゾネ>にほぼ近い状況が整い、後続研究に大いに貢献しました。
2006年、日本の近代期を専門とするノンフィクション作家フィリス・バンバウムが、アメリカの出版社より、初めての英文によるフジタの伝記『栄光の線描写 フジタの生涯 ── 西洋と東洋との狭間で苦悩した画家』を出版しました。これにより、日本とフランスという文化や言語の枠を超えた関心の広まりがありました。
◆ 著作権ってなんだろう?
グーグル社にしろ、アマゾン社にしろ、こうやってご紹介したように、パソコンからの検索で即座にほぼ全頁読むことができます。
フランス国立図書館のガリカ Gallica のサイト では、古い蔵書をデジタル化していて、誰でも読めるし、全巻ダウンロードすることも可能です。しかも完全な無料公開。世界中から自由にアクセスできます。わざわざパリに行って、特別の入館証を使って閲覧しなくても、貴重な古書を丸ごと読むことができます。最近では、デジタル化が進み著作権のまだ残っている書物まで、いくつか読むことができるようになってきています。僕のような状況にいるものにとっては、たいへんありがたいことなのですが・・・。でも、やっぱり僕は本が好きだけれど。
僕自身としては、著作や芸術作品というものは、昔からの先行作品があって、その轍の先を継ぐようにして成立するものだから、一個人の財産だと主張するのは、おこがましいという気がどこかにあります。まして作者本人が亡くなった後、何十年も著作権が遺族に継承されるのは、芸術や学術という普遍的な文化に対する冒涜だ、とも思うのだけれど、とはいえ、作者にも生活があり家族がある以上、利権にこだわる理由もわからないではありません。けれど、教育や研究など公共の利益に関る使用は、著作権より優先する、というフェアユースの問題もあります。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記に、次のような言葉があります。──
愛するものは愛する対象によって左右され、
対象と結合して同じひとつのものとなる。
作品こそ その結合から生まれる最初のものである。
恋される対象が下劣なら、恋するものも下劣になる。
── 結合されたものがそれを受け入れるものと調子の合うとき、
そこには歓びと快楽と満足とが生まれる。
── 愛するものが愛される対象のもとに到着したとき、
そこに憩いが生まれる。
── 重荷がおろされるところには休息がある。
対象は、認識されたのち、はじめてわれわれの知性にとどまる。
コダーイの2番目の妻、シャロルタ夫人のような姿勢もあれば、
フジタの5番目の妻、キミヨ夫人ような姿勢もあります。
みなもと The Source タゴール
赤子の手足に花咲くうつくしき柔らかき新しい生命(いのち)──
誰れかそんなに長く それが何処に隠されていたかを知っているか。
然り。 母がまだ若き娘の時分、
それは愛のやさしい沈黙の神秘となって 母の心を充たしていた。
── 赤子の手足に花咲いたうつくしい柔らかい新しき生命。
日本に生まれて祖国に愛されず、フランスに帰化してもフランス人としても待遇を受けず、共産党のように擁護もなく、迷路の中に一生を終わる。
── レオナール・フジタ 手記『夢の中に生きる』 1965年4月18日付
一日をきれいに生きられたらいいのだ。
人生は、音楽の時間のようだと思う。
── 長田弘 『世界はうつくしいと』 「グレン・グールドの9分32秒」
病床のフジタは、絶え絶えの息で、田淵安一にこう言いました ──
「戦争というものは本当に悲惨なもので、あの絵を見てもらったらわかるけど、あそこには将校は一人も描いていない、死んでゆく兵隊がかわいそうで兵隊しか描いていない」。
6月23日は、沖縄「慰霊の日」。
「不発弾等対策安全基金」 ── 見舞いはすれど、賠償はせず。愚かなり。
日本が見えない。どこぞの国の首相は、漫画は読んでも、フジタは読まないらしい。今になって、フジタやキミヨ夫人の気持ちがよく分かります。フジタの言葉を借りれば ──
「日本(画壇)は早く国際水準に到達して下さい」。
1968年1月29日13時15分、チューリッヒの病院で、長い闘病生活と死の苦痛から解放され、永遠の眠りにつきました。81歳の生涯でした。
ひよわなものや、かぼそいものや、可愛らしいものたちの夢を、
そっと守り育ててゆくような、フジタの慈愛と優しさが、
空気のように「平和の聖母礼拝堂」の空間を充たしていた ──
Yours Musicaly 空っぽの皿 ♪♪



それは見応えがありました。
http://leonardfoujita.jp/
レオナール・フジタの遺骨を巡る確執が、ここまで深いとは知りませんでした。
いまは、夫婦でどんな話をしているのでしょうかね。