2009年06月17日

◆ うたのおくりもの : チプリアン・ポルムベスク

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家 チプリアン・ポルムベスク音楽記念館


 友人のブログに、ぼくの知らない人の名前を見つけました。ぼくは、まずは自分で調べてみます。人から得た情報なり知識は、その場ではわかったような気がしますが、やがて忘れてしまうからです。また、ひとつの情報だけでは、その情報が正しいのかどうかはわかりません。だから、できるだけたくさんのことを、いろいろな角度・視線から調べてみます。そうすると、楽しいですし、新たな発見があることもあります。

天満 敦子 ─ Wikipedia
1992年に文化使節としてルーマニアを訪問、この縁がもとで翌1993年にルーマニア出身の薄幸の作曲家チプリアン・ポルムベスク (en:Ciprian Porumbescu)の遺作「望郷のバラード」の楽譜を托されることとなった。哀愁を帯びた美しい旋律に魅せられて日本初演するとそれが評判となり、CDはクラシックとしては異例の大ヒットとなった。「望郷のバラード」はまさに彼女の代名詞のような存在になっている。
 チプリアン・ポルムベスクの《 バラーダ Balada 》 Op.29 (1880) は、遺作ではありません。

 ── それでは、きょうの記事です。

 東欧唯一のラテン民族の国ルーマニア、ルーマニア語は文法的にはイタリア語よりさらに古典のラテン語です。スラブ系の言語とはまったく異なります。ポルムベスクにも見られるルーマニア人の持つ、独特なラテン気質というものを、先ず忘れないでおいてください。

 チプリアン・ポルムベスク、正式にはチプリアン・ゴレムビオヴスキ・ポルムベスク Coprian Golembiowski Porumbescu は、1853年10月14日、現在のルーマニアの北部ブコヴィナ Bucovina 地方、スチャヴァ県 Judeţul Suceava シポテレ・スチェヴェイ Sipotele Sucevei という、村が幾つか集合したコミューンで生まれました。9人兄弟の2番目として生まれましたが、兄弟のうち6人は子供のころに亡くなり、チプリアンと弟のシュテファン (Stefan 1856〜1896) と、妹のマリオラ (Marioara 1860〜1932) の3人だけが残りました。

 チプリアンは、3、4歳になると、一度聴いた歌はすぐ覚えて歌うことができました。あるとき、ラウタール(吟遊詩人)と呼ばれる民俗音楽専門のヴァイオリン奏者が、彼の家にやって来て演奏しました。それを聴いたチプリアンは、さっそく父イラクリエにヴァイオリンを買ってほしいと頼みます。決して裕福とはいえない家庭でしたが、イラクリエは工面して、ヴァイオリンをチプリアンに買い与えました。チプリアンには大好きな民謡が1曲ありました。それは、《 羊飼いの歌 Măi ciobane de la stână 》という曲で、後にオペレッタ《 クライ・ノウ Crai Nou 》 『新月』 (1882)のアリアに用いられることになります。

 父イラクリエは、チプリアンに音楽の才能があることに気づき、よい音楽教師がいないか、とずいぶん探し、ショパンの弟子でもあり友人でもあったカロル・ミクリ Carol Miculi (1880年、ライプツィヒのキストナー Kistner 社から出版された『ショパン作品集』の編集者として有名)に頼みます。ミクリは快く、この友人の息子のピアノの勉強を引き受けます。1859年から1863年の間でした。ミクリがショパンから受け継いだ大きな影響は、当然チプリアンにも引き継がれました。またその頃、ミクリは民俗音楽の研究家としても名が通っていましたから、その影響も少なからずチプリアンは受けていました。ミクリは、後のチプリアンの作曲活動の基本ともなる要素を与えた、とも言えます。

喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu, Zana Dunarii
 《ドナウ川の妖精 Zâna Dunării 》 Op.4 (1880)

喫茶店 YouTube 望郷のバラード(オーケストラ) 天満敦子

 この投稿者のコメント、間違っています。── ふらふら

 1873年、チプリアン20歳の時、チェルノウツィにあるギリシア正教神学学校(大学に相当します)に入学します。そして、哲学を専攻しますが、この神学校は、音楽の授業が重要視されていて、それが唯一の救いとなりました。

 1875年、ハプスブルク帝国フランツ・ヨーゼフ皇帝は、統治下100年を記念して、チェルノウツィに大学を設立することを決定します。これにより、近隣諸国のルーマニア、ドイツ、ポーランド、チェコから学生が、法学、哲学、神学などを学びに来るようになりました。

 愛国心に燃えるルーマニアの学生らは、「アルボロアーサ Arboroasa 」と名づけられたソサエティを創立します。アルボロアーサという名は、かつてのブコヴィナの地名で「森の国」を意味します。そして、一気に学生たちの政治的運動が活発化してゆきます。このような状況のなかで、チプリアン22歳の時、「アルボロアーサ」の会長に就任します。

 1877年、「アルボロアーサ」は、ハプスブルク政府に対する反対勢力と見なされ、チプリアンを含むメンバーは逮捕されて、およそ11週間投獄されます。その期間、チプリアンの結核が再発し、刑務所の病院に入院した記録も残されています。この当時のチプリアンの主な作品としては、ピアノ伴奏による声楽曲 《 囚われ身のため息 Suspinul Prizonierului 》 (1877) があげられます。

 1878年7月21日、真夏の暑い日。── ポルムベスクが生涯想いを馳せた永遠の恋人、ベルタとの出逢いがありました。

 ベルタ・ゴルゴン Bertha Gorgon 。当時16歳のベルタの父は、ポルムベスクの父(ルーマニア正教)と同じ神父でしたが、宗派が異なるエヴァンゲリスト教会(<福音主義>のプロテスタントに属する宗派)でした。

 1879年、ポルムベスクは、ハイネの詩「君は花のごとく」に自分の想いを託して、
 自分の作品《君は花のごとく Du bist wie eine Blume 》を贈ります。

Heinrich Heine, Buch der Lieder (1827)

     XLVII.

  Du bist wie eine Blume,
So hold und schön und rein;
Ich schau’ dich an, und Wehmuth
Schleicht mir in’s Herz hinein.

  Mir ist, als ob ich die Hände
Auf’s Haupt dir legen sollt’,
Betend, daß Gott dich erhalte
So rein und schön und hold.

 いろいろあったようで、ポルムベスクは恋の病に陥って、持病の結核までが悪化する始末。父イラクリエは息子の異常事態にすぐ気がつくとともに、最初から息子の片思いであることが読めていました。また、ベルタとの結婚にはベルタの父がもっとも反対するであろう、ということにも感づいていました。そして、息子のヴィーン行きを強く希望します。

 ヴィーン行きを承知したポルムベスクは、ベルタに別れを告げます。素知らぬ顔で別れ際に、「さようなら」と言っただけでした。彼の日記(1879年10月5日)には、次のようにあります ──

   泣きたいくらいだった。でも泣いてはいけない・・・と思った。
   僕の心の弱みを見せるわけにはいかないから。
   さようなら、僕の愛するベルタ・・・

 そして後に、この贈りものの曲は、《君は花のごとく(枯れた薔薇) Du bist wie eine Blume ( Roza Vestejită ) 》 と名づけられました。

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喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu, Batraneasca
 ピアノ曲 《老人のためのダンス Bătrânească 》
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu, Hora Detrunchiatilor
 ピアノ曲 《生きるすべを失った人の踊り Hora Detrunchiatilor 》

   パウル・バドゥラ=スコダ Paul Badura-Skoda
   イタリア、アッシジ 「ピアノ・マスタークラス」 にて

 バッハやモーツァルトだからメトロノームのように正確に弾くのではない。もちろん、ショパンだからカンタービレを勝手にテンポ・ルバートにして弾くのでもない。リズムは正確に、テンポはできるだけ正しく。それは左手の役目。できるまで、そして体の中にすべてがしみつくまで、メトロノームを使って練習しなさい。それからイタリアのオペラをよく聴きなさい。偉大な歌手たちの声の美しさをまず聴き比べなさい。人間の声は色彩でいうなら100色入りのパレットのようだから。そしてその色とりどりの雫が、左手という橋桁の上に形成された右手のメロディの流れのなかにしみ込んでゆくように、イメージして弾きなさい。── それがショパンが用いたベルカント唱法です。ショパンはイタリアオペラをよく聴きました。ベルカント唱法からピアノ様式を完成させたかったのです。声楽のポルタメントやヴァイオリンのグリッサンドで音階を上下する技術をピアノでも可能にしよう、と考えたのがショパンでした。そして最後に、あなたの生来の音楽的な才能が大事です。


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 1879年10月、ポルムベルクは、ヴィーン大学哲学科の3年生に編入し、哲学を学びながら、同時にヴィーン音楽院にも、特別聴講生として籍をおきます。ここで彼は音楽理論、和声、ソルフェージュ、作曲、合唱の授業を受けます。

 和声は、アントン・ブルックナーと、オルガニストのフランツ・クレンに習い、その他、ピアノをランデスクロン Landeskron に、合唱と合唱練習をファイシュテンベルガー Faistenberger に師事しました。

 ヴィーンでは学業以外に、「若いルーマニアの会」に参加し、そこでも音楽活動を積極的に行い、さらに毎晩のように、ヴィーンで演奏会やオペラ、オペレッタなどに通い、さまざまな音楽を聴いたり見たりしました。

 ヴィーンでの生活は、経済的にはいつも大変だったようですが、「ワイン数本と自分の外套とを交換して、友人たちと楽しく飲んだ」、という記録も残っています。それでもポルムベスクは、ヴィーンでの生活を「心地よく気持ち良い Gemütlichkeit 」と記述しています。

 1880年、「若いルーマニアの会」から、この時期の集大成ともいえる曲集『ルーマニアの学生のための合唱曲集』を出版します。

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本 『ルーマニアの学生のための合唱曲集』 (1880年) より
本 Colectiunei de cântece sociale pentru studentii români (1880)

     《 3色旗の歌 Cântecul Tricolorului 》

   僕は この世の中で3つの色しか知らない
   それぞれの色は古くから存在していて
   そして よく知られている色
   それは 勇敢な民族を思い出す色

   赤は 自由と国への愛 僕の心の炎の色
   金色は 尊厳のある太陽の色 僕らの未来の色
   永遠に咲く花のように 永久に輝く色
   青は 国への変わらぬ信頼と忠義の色

   この空のあるかぎり
   この世界のあるかぎり
   この3つの色は存在するだろう
   僕らには 素晴らしい名前と将来があるから


 このポルムベスクの歌詞による《3色旗の歌》は、社会主義時代には勝手に、政府の都合のいいように別の歌詞がつけられ、そのためたくさんの歌詞が存在しますが、1989年まで、ルーマニア国歌として存在していました。

 出版された『ルーマニアの学生のための合唱曲集』は、全部で20曲あります。《われわれの旗に統一を Pe-al Nostru Steag 》などの愛国心を歌った曲以外には、民族的な歌や、学生が集まったときに歌う曲、その他に、ジプシーの歌が2曲収められています。

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喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Ballade for Violin and Orchestra

 1880年7月19日、ポルムベスクはヴィーンの音楽院の1年生を終え、故郷ストゥプカ Stupca に帰ってきます。久しぶりに会ったベルタの態度は、ポルムベスクの心を傷つけます。けれど、皮肉なもので、作曲への情熱は彼の魂を揺さぶり、沸々と新たな旋律が湧き出ててきました。

 同年9月22日、ポルムベスクは、《ベルタのノクターン》を作曲します。別名、《テンピ・パッサーティ Tempi Passati 》 すなわち、《過ぎ去った過去》。ポルムベスク没後の1892年に出版されました。

 またこの期間、自作の詩による歌曲《諦め Resignation 》、ピアノ曲《ブラックユーモア Galgenhumor 》を創作します。《ブラックユーモア》は、自分の情けない姿を哀れみつつ、反面クスッと口元で苦笑いするような、皮肉めいた心境を曲中に表現しています。


  10月7日(火曜日) ポルムベスクの日記

  午前中は荷造りをした。午後にはヴィーンに出発する。
  さようなら、懐かしい故郷、ストゥプカ。
  さようなら、僕のいとしい人たち。
  さようなら、僕のふるさと・・・
  さようなら、みんな元気で・・・ 

 10月16日、《バラーダ》 初稿
 10月21日、《バラーダ》 完成。

 この曲は、ルーマニアに古くから伝わる民俗音楽のひとつ、ドイナの旋律を基に歌い上げられ、ポルムベスクの際立った旋律線の美しさは、民俗音楽との融合に伴い、より一層説得力をもつものとなっています。

 ポルムベスクがこのようにして作品を創り上げた事実は、後のコダーイやバルトーク、東欧の音楽家たちに重要な影響を与えました。

 第1主題の素朴な旋律に続いて、第2主題ではモルトヴァ地方の民謡《高い樅の木の山》を基本に、旋律をほぼ忠実に用いながら、音程を1部変えたり、リズムを変化させたりしています。また、この部分にはドリア調のテトラコードがみられ、独特な雰囲気を漂わせています。

 最初、ポルムベスクは2台のヴァイオリン用の曲として作曲を試みましたが、最終的にはピアノ伴奏つきのヴァイオリン独奏曲として完成させました。後に、テオドール・ロガルスキ Theodor Roglski によって、オーケストラ伴奏にも編曲されています。《 Balada pentru vioară şi orchestră 》 op. 29 。

 《バラーダ》は、ルーマニア国民のために書かれ、当時ハプスブルク帝国の権力のもとに追いやれたルーマニア国民の苦しみを表象しています。その苦しみと、ベルタとのかなわぬ恋の悲痛な気持ちとが一体となって、人間の悲しみを歌い上げた曲です。


 同年12月、ポルムベルクはベルタにロマンスを作曲して贈っています ── 題名はズバリ、《僕はあなたを愛していた Ich liebte dich 》。

 ここでイメージの固定化という意味で、伝えておきたいことがあります。それは、ポルムベルクがラテン系の男性であるということ。なぜベルタは彼に冷たい仕打ちをしたのでしょう? 彼女が友人へ宛てた手紙が残されていて、そこには次のように書かれています。──

   貴女にお願いがあるのだけれど・・・彼に伝えてほしいの、次のことを。
   彼は私に黙っているけれど、彼がヴィーンでどんなふうに過ごしていたのか、
   私には全部手に取るようにわかっているのよ。
   ・・・だからそんな彼を、私は絶対に許せないわ。
   私が怒っていることを、貴女の口から彼に伝えてくださらない? お願いだから。


  1881年3月3日(木曜日) ポルムベスクの日記

  昨夜は亡くなった母の夢を見たようだ。母が懐かしい・・・もう一度逢いたい。

  僕は毎朝コーヒーを下宿のおばさんに頼む。起きて着替えると、おばさんはいつも熱々の美味しいコーヒーを運んできてくれる。コーヒーが冷めないように真白のナプキンを掛けてくれる。このおばさんは本当に良いおばさんだ。いつも部屋はきちんと掃除してくれるし、鏡だっていつもピカピカだ。僕はここに住めて幸せだ。

  僕は『ドイツ新聞』を定期購読している。常に新しい情報を得るには新聞は必要だ。新聞は家主のおばさんが決まっていつものタバコ屋から買って届けてくれる。

  それにしても家から何の音沙汰もない。明日こそは手紙が来るだろうか・・・

  今日は僕の好きな《フィデリオ》(ベートーヴェン)を勉強した。今度の土曜日に公演がある。

  勉強のあと出かけて、ネクタイ、櫛、歯ブラシ、そのほか細かい身の回りの必需品を買った。それでずいぶんと散財してしまった。

  エパの家に出かけた。彼の家ではしょっちゅう、可愛くて優しい愉快な女の子たちと知り合いになれる。たとえばモデル・・・彼女はそんなに美人ではないが、でも小柄で優しい子だ。テレーゼ・ミューラー・・・彼女はヘルナルス・ハウプト通り8番地の2階の19号室に住んでいる。テレーゼとは気が合い愉快なお喋りのできる友達だ。今夜は夕食を一緒にしてから、10時頃の電車で彼女を家まで送った。寄り道をして帰ろうかと一瞬思ったがやめた。なんだかもやもやした気分がおさまらなかったけど、ここはおとなしく家に帰ることにした。


 ポルムベスクの母エミリア Emilia は、彼が19歳の時に結核で亡くなっています。

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喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --1. Aria Dochitei - Hora
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --2. Cantecul lui Corbu
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --3. Corul fetelor si flacailor
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --4. Scena Leonas-Anica: Anico, Anico
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --5. Scena Bujor-Dochita-Ispravnicul
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --6. Cantecul Dochitei
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --7. Duetul Ispravnicul-Dochita
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou --8. Cantecul Anicai cu Leonas
喫茶店 YouTube C. P. - Crai Nou --9. Scena Anica-Dochita-Bujor-Leonas-Ispravnicul
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou -10. Duet Bujor - Corbu + Cor
喫茶店 YouTube Ciprian Porumbescu - Crai Nou -11. Scena Ispravnicul-Corbul si Corul final

 1882年2月、ポルムベスクはブラショフ Braşov のギムナジウムと呼ばれる10代の女子中学校に赴任します。トランシルヴァニア地方にあるブラショフは、ブカレストから北に180キロほどのところに位置し、森に囲まれた美しい古都として知られています。ブラショフは、ザクセン人が住んでいた頃、ドイツ語名でクローンシュタット Kronstadt と呼ばれていました。トランシルヴァニア Transilvania は、カルパチア山脈に3方を囲まれた台地で、「森の彼方の国」という意味です。

 1882年2月27日、ブラショフにて、オペレッタ Opereta 《新月 Crai nou 》初演。
 同年2月28日、2回目の公演。
 同年3月14日、3回目の公演。

 指揮は、ポルムベスク自らがおこないました。台本は、ルーマニアの詩人ヴァトリ・アレクサンドリ Vasile Alecsandri のテクストを基に、ポルムベスクが部分的に書き直しています。

 民俗音楽を題材にした合唱曲<クライ・ノウ Crai nou >、
 行進曲<山の中腹で Pe plaiul munte >、
 ヴィーン風の行進曲<おいで、おいで Haidţi haideţi > などの曲が、特によく知られています。

 没後の1883年8月13日、4回目の公演がおこなわれました。

 「演奏も質の高い出来映えだったが、それ以上にこのオペレッタは、すさまじい人気とともに人々のこころに残り、ポルムベスクは永遠のルーマニアの作曲家としての地位を確立した」。

 ── ブラショフ(クローンシュタット)新聞 Kronstaedter Zeitung


 この作品:オペレッタ《新月》は、彼以降のルーマニアの作曲家、ジョルジェ・エネスク George Enescu らに大きな影響を与えました。

Casa memorială G. Enescu.jpg  るんるん 《 Sonate n°3 en ré majeur op.24 n°3 》
  Vivace con brio
  喫茶店 YouTube Dinu Lipatti - George Enescu
  Andantino cantabile
  喫茶店 YouTube Dinu Lipatti - George Enescu
  Allegro con spirito
  喫茶店 YouTube Dinu Lipatti - George Enescu
家 Casa memorială George Enescu de la Cumpătu, Sinaia
メール ティンクさんへ ありがとうございました。


夜 ピアノ曲 [ ノクターン ] 《 ネルヴィの想い出 Souvenir de Nervi 》 Op.17

 《クライ・ノウ》発表当時、日いちにちと、結核 Tuberculoză の病魔はポルムベスクの命の炎に怪しげに近づいてきていました。ブラショフの厳しい気候は、彼の健康状態をさらに悪化させることに間違いはありませんでした。このようなポルムベスクを見かねた友人たちは、彼をイタリアで療養させようと資金を集めはじめます。ブラショフの資金家たちもこれに協力します。

 1882年10月、冬の到来前に、ポルムベスクは、イタリアのネルヴィに向います。この地で彼は、評論家カミッロ・ボイト Camillo Boito と、イタリア人作曲家マルコ・サーラ Marco Sala と知り合います。そして彼らは、ジュゼッペ・ヴェルディ Giuseppe Verdi に引き合わせてくれました。

 ヴェルディの前で、ポルムベルクはヴァイオリンを構え、ドイナを弾きました。ヴェルディは、この曲に深く感動し、またその演奏にも讃辞を送りました ──

  君の弾くヴァイオリンの音色は、まさに人の声のようだね。悲しみも苦悩も、そしてもちろん喜びも ── 君の奏でる曲は、まるでイタリアのオペラを聴くようだね。そして、流れるドイナの旋律は、われわれイタリア人の心の琴線にも触れる素晴らしいものだ。濡れるような、何ともいいようのない人の心そのものだ。

 けれど、病は快復の兆しがなく、所持金もどんどん底をついていきました。おそらくポルムベスクは、自分に残された命がそう長くないことに気がついていたのでしょう。

 もうイタリアに未練はない。早く故郷に帰りたい・・・・・・

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家 故郷ストゥプカ、現チプリアン・ポルムベスク村にあるメモリアルハウス。
家 Casa memorială Ciprian Porumbescu : ポルムベスクは、この家で亡くなりました。

 1883年2月5日(あるいは17日)、イタリアをあとにしたポルムベスクは、故郷のストゥプカに帰ってきました。故郷に戻ったポルムベスクは、キリストの弟子ジョルジュを主人公とし、ヴェルディと出会った感激と希望を胸にした新しいオペレッタ、《聖ジョルジュの夜》を手がけ始めますが、この作品は、未完のままに終わります。死は、あまりにも早くポルムベスクに訪れます。

 1883年6月5日の夜、咳が出て吐血が始まり、翌6日午前3時、ポルムベスクは眠るように安らかに、静かに息をひきとりました。享年29歳、あまりにも短い生涯でした。けれど、爽やかに通り過ぎる風のように、彗星のごとく音の世界を駆け抜けた生涯でした。

プレゼント いす YouTube Schubert - Am Tage aller Seelen - Fischer-Dieskau, Moore

   Ruh'n in Frieden alle Seelen,
   Die vollbracht ein banges Quälen,
   Die vollendet süßen Traum,
   Lebenssatt, geboren kaum
   Aus der Welt hinüberschieden:
   Alle Seelen ruhn in Frieden !

   安らかに憩え、あらゆる魂よ、
   不安な苦しさを経験した魂、
   甘美な夢を見終えた魂、
   生に倦んだ魂、生まれたばかりで
   この世から別れた魂、
   あらゆる魂よ、安らかに憩え!

   Und die nie der Sonne lachten,
   Unterm Mond auf Dornen wachten,
   Gott im reinen Himmelslicht
   Einst zu sehn von Angesicht:
   Alle, die von hinnen schieden,
   Alle Seelen ruhn in Frieden !

   そして太陽に笑いかけることのなかった魂、
   月の下、茨の上で目を覚ましていた魂、
   清らかな天の光に包まれて神と
   かつて対面した魂、
   この世と別れた魂のすべて、
   あらゆる魂よ、安らかに憩え!


いす YouTube Takemitsu Litany
 ラテン語リタニア Litania、ギリシャ語 λιτή (litê) 祈る人・嘆願。
 パニヒダ(ギリシア語: Μνημόσυνο, ロシア語: Панихи́да, 英語: Memorial service (or panikhída) : 正教会において永眠者の為に行われる祈り。


 6月6日、彼の葬式がとりおこなわれ、村の農民たちが大勢集まり、永遠の別れを惜しみました。けれど、ベルタの姿はありませんでした。彼女はポルムベスクの死を知る由もなかったのです。

 ポルムベルクの最後の言葉は、妹マリオラに向って、──

   お願いだ、どうか《ベルタのノクターン》を弾いてくれないか

 マリオラがピアノを弾き終わると、──

   もう一度、もう一度でいいから弾いてくれないか・・・・・・


 ── だったと、伝えられています。


プレゼント 夜 YouTube Chopin Nocturne Op.27 No.1 (Arthur Rubinstein)

《 ルーマニア・ラプソディ Rapsodia română 》 pentru orchestră (1882)
喫茶店 YouTube C. Porumbescu: Romanian Rhapsody for Orchestra, 1882 (Part 1)
喫茶店 YouTube C. Porumbescu: Romanian Rhapsody for Orchestra, 1882 (Part 2)

  ルーマニア国民のために作曲することが自分の使命であり、
  国民の心に近い存在となる作品を作ることで国民を理解したい。

  ── チプリアン・ポルムベスク

プレゼント YouTube Balada Ciprian Porumbescu

 《バラーダ》 は、そういった意味においても、当時のルーマニア国民の心を代弁した作品のひとつだったのではないでしょうか。

 29歳という短い生涯のうちに250曲以上の曲を残したポルムベスク、そのなかでも、── 

 混声合唱曲 《 セレナーデ Serenadă 》
 男性4部合唱 《 プルト川の土手 La malurile Prutului 》
 男性4部合唱 《 プトゥナ修道院の祭壇 Altarul Mănăstirii Putna 》
 ユニゾンによる合唱曲 《 ルーマニア人の心 Inimă de român 》 (1880)
 ユニゾンによる合唱曲 《 いざ我ら喜ばん [ 大学卒業の時の歌 ] Gaudeamus Igitur 》
 混声合唱曲 《 ルーマニア兵士のオード Odă ostaşilor români 》

 ── などの歌が、今でも広く愛され、歌い継がれています。

ルーマニア映画 『チプリアン・ポルムベスクの生涯 Ciprian Porumbescu 』
TV YouTube Ciprian Porumbescu--Ballade
TV Google ビデオ Ciprian Porumbescu [filme Romanesti] 上映時間 2:18:53

 お楽しみください。

 それでは、また!


本 参考サイト:
 Ciprian Porumbescu ─ Wikipedia (ルーマニア語)
本 参考文献:
 Viorel Cosma, Ciprian Porumbescu - Monografie, Bucurreşti. 1957


夜 キャンドルナイトの夜に  Yours Musicaly 空っぽの皿 ♪♪



posted by 空っぽの皿 at 22:19| パリ | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お皿さんへ

チプリアン・ポルムベスクのことを特集して下さってありがとうございました。

お礼に、ルーマニア出身の二人のピアニスト、
ラドゥ・ルプーとディヌ・リパッティの演奏をお贈りします。

二人とも記事に出てくるルーマニアの作曲家エネスコの作品を演奏しています。

ルプーは、2001年の日本公演で
エネスコの《ピアノ・ソナタ第1番 Op.24-1 》を演奏しましたし、
リパッティは《ピアノ・ソナタ第3番 Op.24-3 》を録音で残しています。

ルプーがエネスコを演奏した映像はありませんので
シューベルトの即興曲の演奏でお許しください。


Schubert《 Impromptu Op.142-4 》Radu Lupu
http://www.youtube.com/watch?v=jfHeAQ18BTA



George Enescu 《 Piano Sonata No. 3 Op.24-3 》Dinu Lipatti
第1楽章
http://www.youtube.com/watch?v=WI6BdAVRUQo&feature=related
第2楽章
http://www.youtube.com/watch?v=nJFBcodmd-4&feature=related
第3楽章
http://www.youtube.com/watch?v=vuSt7eMnIx8&feature=related

*映像ではOp.25となっていますがOp.24-3が正しいのではないかと思います。
Posted by ティンク at 2009年06月21日 12:51
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